賀茂祭の起源及び変遷
賀茂祭は祭儀に関わる全ての人たち、また社殿の御簾・牛車に至るまで二葉葵を桂の小枝に挿し飾ることから、広く一般には「葵祭」として知られる祭です。
その起源は太古別雷神(わけいかづちのかみ)が現社殿北北西にある神山(こうやま)に御降臨された際、御神託により奥山の賢木(さかき)を取り阿礼(あれ)に立て、種々の綵色(いろあや)を飾り、走馬を行い、葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭を行ったのが当神社の祭祀の始めであります。
時を経て6世紀欽明天皇の御代、日本国中が風水害に見舞われ国民の窮状が甚だしかったため、勅命により卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ、賀茂大神の祟りであると奏したことにより、4月吉日を選び馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)をかむり駆馳(くち)して盛大に祭りを行わせた事が賀茂祭の起こりであると『賀茂縁起』に記されています。
後、奈良時代の元明天皇和銅4年(711)4月に賀茂祭の日には国司(現在の知事)が毎年親しく祭場に臨んで祭が無事執り行われているか検察せよと勅せられました。
平安時代に至り、平城天皇大同2年(807)四月には勅祭(勅命により行われる祭祀)として賀茂祭が始められ、次いで嵯峨天皇弘仁元年(810)伊勢の神宮の斎宮の制に準ぜられ、賀茂の神に御杖代(みつえしろ)として斎院(斎王)を奉られ、祭に奉仕させられました。
続く弘仁10年(819)3月16日には賀茂祭を中祀に準じ斎行せよとの勅が下され、当時の神社に対する祭の最も重い御取扱いを受けました。中祀とは伊勢の神宮と賀茂社より他には見られませんでした。 貞観年中(859〜876)には勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀の完成を見ました。然しながら当時賀茂祭の社頭における祭儀は一般の拝観を殆ど許されず、祭の当日は唯御所から社への行装を一目拝観せんとして法皇・上皇達は牛車を押し並べ、或は桧皮葺の桟敷を設け、京の人々は言うに及ばず地方から上京してきた人達も加わり街は人で溢れたといわれています。また、拝観場所の車争いの事が載せられた『源氏物語』等のこの時代の日記・書物等に賀茂祭をただ「祭」とのみ記したものが多く存するのは、賀茂祭の祭儀が盛大であるのみならず典型的な行装と儀式であったためでありましょう。
さしも盛大に且つ重要視された祭儀も室町時代中期頃から次第に衰微し、ついに応仁の大乱以降は全く廃絶致しました。その後200余年を経て江戸時代に至り東山天皇元禄7年(1694)に、往時の盛儀をそのまま復興することは困難でありましたが、上賀茂・下鴨、両社の熱意と朝廷・公家の理解と幕府の協力により再興され、明治3年(1870)まで執行されました。その後暫く中絶され、単に奉幣使のみの参向となり、明治17年(1884)明治天皇の旧儀復興の仰せにより春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭と共に所謂日本三勅祭の一として厳粛に祭儀が執行されることとなりました。
祭日も古来4月吉日(第2の酉の日)とされていましたが、明治維新以後新暦の5月15日と改められ現在に及んでいます。
行列は大正15年(1926)更に整備され、昭和の御代となり国内情勢の激変により昭和18年(1943)雅やかな行列はやむなく中止とされ社頭の儀が斎行されるのみになる。昭和28年(1953)葵祭行列協賛会の後援を得て行列が復活し、更には昭和31年(1956)に斎王に代わる「斎王代」を中心とする女人列も復興され、往時の如く華やかに美々しい行装が京都の市中を、若葉の色瑞々しい賀茂川の堤を渡るようになり現在に続いています。
