賀茂祭

当神社の年間祭典で最も重要な祭儀(例祭)で、遥か昔、欽明天皇の御世に祭の起源は遡ります。社殿に葵を飾り、祭の奉仕者が葵を身に付けるところから「葵祭」とも呼ばれるようになりました。今も国家の安泰や国民の安寧をお祈りしています。

当日午前10時半、行列は京都御所を出発し、賀茂御祖神社(下鴨神社)にて祭儀を行った後、再び行粧を整えて、加茂街道を北上、午後3時半頃に当神社に到着します。
「一の鳥居」から行列が白砂の参道を清々と進むさまは新緑の映えと相まって、絶妙のコントラストを醸し出します。
引き続き、「二の鳥居」内で勅使の御祭文奏上、牽馬、東遊、などの儀が古儀のまま行われるさまは、まるで王朝絵巻を目の当たりにしているようです。

起源

その起源は太古、別雷神わけいかづちのかみが現社殿北北西にある神山こうやまに御降臨された際、御神託により奥山の賢木さかきを取り阿礼あれに立て、種々の綵色いろあやを飾り、走馬を行い、葵楓あおいかつらかずらを装って祭を行ったのが当神社の祭祀の始まりです。

変遷

後、平安時代の平城天皇大同元年(806)4月,賀茂祭の日には国司(現在の知事)が毎年親しく祭場に臨んで祭が無事執り行われているか検察せよと勅せられました。

平安時代に至り、平城天皇大同2年(807)4月には勅祭(勅命により行われる祭祀)として賀茂祭が始められ、次いで嵯峨天皇弘仁元年(810)伊勢の神宮の斎宮の制に準ぜられ、賀茂の神に御杖代みつえしろとして斎院(斎王)を奉られ、祭に奉仕させられました。

続く弘仁10年(819)3月16日には賀茂祭を中祀に準じ斎行せよとの勅が下され、当時の神社に対する祭の最も重い御取扱いを受けました。中祀とは伊勢の神宮と賀茂社より他には見られませんでした。
貞観年中(859〜876)には勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀の完成を見ました。然しながら当時賀茂祭の社頭における祭儀は一般の拝観を殆ど許されず、祭の当日は唯御所から社への行装を一目拝観せんとして法皇・上皇達は牛車を押し並べ、或は檜皮葺の桟敷を設け、京の人々は言うに及ばず地方から上京してきた人達も加わり街は人で溢れたといわれています。
また、拝観場所の車争いの事が載せられた『源氏物語』等のこの時代の日記・書物等に賀茂祭を単に「まつり」とのみ記したものが多く存するのは、賀茂祭の祭儀が盛大であるのみならず典型的な行装と儀式であったためでありましょう。

賀茂祭 社頭の儀

さしも盛大に且つ重要視された祭儀も室町時代中期頃から次第に衰微し、ついに応仁の大乱以降は全く廃絶致しました。その後200余年を経て江戸時代に至り東山天皇元禄7年(1694)に、往時の盛儀をそのまま復興することは困難でありましたが、上賀茂・下鴨両社の熱意と朝廷・公家の理解と幕府の協力により再興され、明治3年(1870)まで執行されました。
その後暫く中絶され、単に奉幣使のみの参向となり、明治17年(1884)明治天皇の旧儀復興の仰せにより春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭と共に所謂日本三勅祭の一として厳粛に祭儀が執行されることとなりました。
祭日も古来4月吉日(2番目の酉の日)とされていましたが、明治維新以後新暦の5月15日と改められ現在に及んでいます。
行列は大正15年(1926)更に整備され、昭和の御代となり国内情勢の激変により昭和18年(1943)雅やかな行列はやむなく中止とされ社頭の儀が斎行されるのみとなりました。

昭和28年(1953)葵祭行列協賛会の後援を得て行列が復活し、更には昭和31年(1956)に斎王に代わる「斎王代」を中心とする女人列も復興され、往時の如く華やかに美々しい行装が京都の市中を、若葉の色瑞々しい賀茂川の堤を渡るようになり現在に続いています。

賀茂斎院の制

宮中では古来,神への崇敬の念を表す行為の一つとして、未婚の皇女を神の御杖代として差し遣わされる例がありました。この皇女は「斎王」と称し祭事に御奉仕されました。その例は初め伊勢の神宮に、次いで賀茂の大神に奉られただけであります。如何に賀茂の大神への皇室御崇敬の念が厚かったかが偲ばれます。

賀茂に於いては弘仁元年(810)4月に嵯峨天皇の勅願により、伊勢に倣って第8皇女有智子うちこ内親王を奉られたのが賀茂斎院の制の始めであります。此を定められた事により伊勢を「斎宮」、賀茂を「斎院」として区別されるようになりました。
斎院は「さいいん」又は「いつきのみや」とも云い、嵯峨天皇爾後ご即位の度卜定ぼくじょうされ、天皇陛下が譲位・崩御された際退下たいげ(斎王をやめる事)するのが習わしとされました。

但、第16代選子内親王は5代・57年間勤められる等、伊勢の斎宮のように必ずしも代替り毎に交代されていた訳ではなかったようであります。
斎王が卜定されると参議以上の殿上人を勅使として差し遣わされ、賀茂両社に事の由を奉告されます。次に御所内の一所をぼくして初斎院しょさいいんと云われる居所を設けられ、3年間日々潔斎し毎月朔日ついたちには賀茂の大神を遥拝する生活を送られました。
3年を経て4月上旬(旧暦)吉日に野宮ののみや(愛宕郡紫野に設けられたので「紫野院むらさきのいん」ともいわれました)の院に入られ、賀茂川にて御禊を行った後初めて祭事の奉仕が許されました。

この院は、現在の京都市上京区大宮通盧山寺西北社横町の「櫟谷七野神社いちいだにななのじんじゃ」あたりの一画(約150m四方)にあったと推定され、内院と外院からなる二重構造で、内院には斎王の寝殿や賀茂両社の神を祀る神殿等があり、外院には事務等を担当する斎院司や蔵人所が置かれ、長官以下官人、内侍、女嬬等が仕えておりました。
往時賀茂祭当日斎王は御所車にて院を出御され、勅使以下諸役の行列と一条大路にて合流、東行し先ず下社へ次いで上社へ参向、上社にては本殿右座に着座され祭儀が執り行われました。その夜は上社御阿礼所みあれしょ前の神館こうだてに宿泊され翌日野宮へ戻られました。
後、宮中では使いらを召され宴を賜い禄を下されますが、斎院に於いても同様の「還立かえりだちの儀」が行われていました。連綿と奉仕せられてきた斎院ではありましたが、鎌倉時代初期の土御門天皇の御代に卜定された、後鳥羽天皇の第11皇女禮子いやこ内親王を最後に絶えて再び置かれることはありませんでした。よって賀茂に斎院の置かれた期間は弘仁元年(810)から建暦2年(1212)の凡そ400年間で、35代に及びました。

時を経て昭和31年(1956)関係者の後援を受け、斎王に代わる「斎王代」を中心とする女人列が往時の如く復興されました。

斎王代以下女人列御禊の儀

斎王は賀茂祭に於いて御杖代として直接奉仕される重要な祭典であり、往時は賀茂祭当日(旧暦4月2番目の酉の日)に先立つ午又は未の日に斎院より賀茂川の河原に赴かれて、更に身を清められる「御禊」が行われていました。その当日は、『源氏物語』で斎王の供奉に加わった光源氏の姿を見ようとした葵上と六条御息所との車争いの話にも現されるように本祭に劣らぬ沢山の人出がありました。

弘仁元年(810)から建暦2年(1212)の凡そ400年間・35代に及んだ斎王の制度は廃れたが、昭和31年、斎王に代わる「斎王代」を中心とする女人列の復興に伴い、往時の「御禊」の再現として「斎王代以下女人列御禊の儀」が現在は5月4日に上賀茂・下鴨両神社毎年交互に斎行される例となりました。

当神社に於いて「御禊」を行う際は境内・御手洗川に架かる「橋殿」を祭場として行われます。

斎王代以下女人列御禊の儀 次第

時刻前 奉仕神職・伶人修祓
時刻 斎王代以下女人列一ノ鳥居前に到着
先 手水の儀
次 斎王代以下女人列「葵桂」を附す
次 斎王代以下女人列「橋殿」へ参進(この間奏楽)
次 神職 中臣祓詞を宣読す
次 神職 大麻を以て斎王代以下女人列を祓う
次 斎王代 御手洗川にて御禊(この間奏楽)
次 斎王代以下女人列 「形代」にて解除
次 斎王代以下女人列 本殿を遥拝
次 記念撮影の後、一同退下

賀茂競馬

堀河天皇の寛治7年(1093)に始った行事。早朝より頓宮遷御とんぐうせんぎょ、菖蒲の根合せ等が行われます。
乗尻のりじりは左右に分れ、左方は打毬たぎゅう、右方は狛鉾こまぼこの舞楽装束を着け、馬に乗って社頭に参進します。
勧盃、日形乗、月形乗、修祓、奉幣の儀を行い次いで馬場にて順次競馳きょうちします。

その様子は『徒然草』等にも書かれており、蓋し天下の壮観であります。京都市登録無形民俗文化財に登録されています。
これに先立ち5月1日には、5日の競馬に出場する馬足の優劣を定める足汰式あしぞろえしきが行われます。
平成15年に競馬会神事910年祭が斎行されました。

献茶祭

賀茂祭終了後、表・裏両千家家元宗匠が隔年奉仕により斎行されます。
昭和29年(1954)に始行されてより、神前に濃茶薄茶の各一服を奉り御心を和ませ、併せて境内に設けられる副席に参拝者が集い茶を頂く情景は正に茶の湯を通じ神人和楽の雰囲気を醸し出しています。

賀茂祭行列 巡行順路・時間予定

上賀茂神社祭儀終了予定:午後6時